bunsyoudokuhon

著者:斎藤美奈子
出版社:筑摩書房(ちくま文庫) ¥950+税

 

 

科学を語る ~科学への愛の言葉~

渡辺政隆 わたなべ まさたか 

初出:科学, 78(6), 682-687, 2008-06, 岩波書店 

 

文章読本さん

日本語は論理的な表現に適さない言語であり,そのせいで日本人は論理的思考が苦手なのだ.したがって日本語は科学論文を書いたり科学を語ることには向いていない.今でもまだこのような言説を時おり耳にする.しかしほんとうにそうだとしたら,この『科学』という雑誌自体が成り立たなくなる.

斎藤美奈子(1)によれば,日本語は非論理的言語であるという件の「神話」は谷崎潤一郎の『文章読本』に始まったという.そして三島由紀夫(『文章読本』)と清水幾多郎(『論文の書き方』)が肯定したことで強化された.

それでも論理的な文章を書く必要がある場合にはどうすればいいのか.清水幾多郎の勧めは,短い文章を心がけ,論理構造を明示する接続詞でそれらを結んでいけばよいというものだ.

だけどちょっと待ってほしい.そうすることで論理的な文章になるのなら,日本語だって論理的な表現ができるということではないのか.それでも日本語が非論理的と主張するのは,日本語ではなく,ご当人の頭が非論理的だからなのではないかと疑いたくなる.

言語学者,井上和子(2)の言は,このあたりのことについてきわめて明瞭である.

「日本語は論理的表現に適さない言語だから,日本人は論理的表現を得意としない」と言われることがよくありますが,これは全く誤解です.そもそも,人間は生れ落ちてから非常に短期間に母語を覚えるという事実があります.この事実は,人間である以上言葉というものが生まれながらに身に付いており,日本語が使われている環境に生まれれば日本語として発現し,英語の環境に生まれれば英語として発現するというふうに考えないと,とても説明することができません.(中略) ですから,英語で論理的な表現ができるのだったら,日本語でできないはずはありません.もし日本人が日本語を使って論理的な表現ができないとしたら,それは日本語の責任ではなくて,私たちが言葉の仕組みについて意識をさせ,言葉の使用について訓練するということをちゃんと行っていない,その結果であるというふうに思います.

つまり日本の社会で非論理的な発言や非論理的な文章が多いとしたら,それは論理的に語ったり論理的に書く訓練を受けていないからだというのだ.

日本語非論理的言語論が出てくる所以の1つとして,井上は「黄色い花のついたバッグ」という文章を例にあげる.なんでもない文章のように見えるが,じつは2通りの解釈が可能なことがわかるだろう.すなわち黄色いのは「花」なのか,それとも「バッグ」なのかが,この一文だけでは不明なのだ.英語でa bag with a yellow flowerあるいはa yellow bag with a flowerと書けば,誤解は生じえない.

日本語非論理的言語論者ならばわが意を得たりとばかり,ほら見ろ,日本語はこんなに曖昧じゃないかと言うことだろう.しかし井上は,日本語にはこのような多義性があることを早い時期から子供に教えることで言葉に対する感性を磨けば問題は解決すると説く.子供はむしろこのような言語構造があることをおもしろがり,誤解のない表現を工夫するようになるというのだ.

このような曖昧表現は日本語の語順と関係している.日本語では,修飾すべき語の前(横書きならば左)に修飾節をどんどん埋め込んでいけるのだが,この例のように,左の修飾節がすぐ右の説を修飾するとは限らない場合も出てくる.英語の場合だと,基本的に修飾語は後ろ,すなわち右の方向に埋め込まれていき,あまり誤解を生じない.この話は,言語学では常識なのだろうが,ぼくにとっては目から鱗だった.例を示すのが手っ取り早いので,やはり井上があげている例を紹介しよう.「研究室」の場所を特定するにあたって,日本語ならばこうなる.

 

電車通りに面した,門のそばにある,時計台の後ろに見える,建物の二階にある,実験室

 

 それに対して英語は,

the laboratory/ on the second floor/ of the building/ behind the clock tower/ besides the gate/ facing the tramway

というぐあいに,修飾節が右へ右へと埋め込まれていく.

英語と日本語間の翻訳をする際には,このような構造のちがいをひしひしと実感しているはずなのだが,改めて示されると新鮮な思いがする.日本語では,最後まで読まない(聞かない)と目的地がわからない.したがってこの2つの文だけを見比べただけならば,日本語では論旨を明快に述べられないと言いたくなる.だが,たとえば会話などで,唐突に

「明日会ってもらえますか.電車通りに面した,門のそばにある,時計台の後ろに見える,建物の二階にある,実験室で」

などとしゃべる人などふつうはいないだろう.たいていの会話は,

「明日,実験室であってもらえますか」
「どこの実験室ですか」
「電車通りに面した,門のそばにある,時計台の後ろに見える,建物の二階にある,実験室です」

というふうに進むものだ.要は,文脈を配慮して論理的に話したり書いたりする訓練ができているかどうかということになる.
 

科学の文体

『文章読本』を著した小説の大家たちがこぞって日本語非論理的言語論を掲げたのは,論理的な文章は美しくないとの思い込みがあったのかもしれない.だが,論理的な文章と誤解を生まない文章とはちがう.小説だって,論理的である必要はない,とは言わないだろう.

上で引用した「電車通りに面した,門のそばにある,時計台の後ろに見える,建物の二階にある,実験室」という一文は,誤解を生まない文章ではあるにしても,たしかに美文ではない.誤解は生まないが無味乾燥な悪文の代表は法律の文章であるといわれる.その一例として,法人税法にある「同族会社」の定義(第二条の十)を引用しよう.句読点をいっさい使わずに誤解の生じえない定義を行っている点に注目してほしい.無味乾燥ではあるにしても,これは1つの感服すべき技である.

会社の株主等(その会社が自己の株式又は出資を有する場合のその会社を除く.)の三人以下並びにこれらと政令で定める特殊の関係のある個人及び法人がその会社の発行済株式又は出資(その会社が有する自己の株式又は出資を除く.)の総数又は総額の百分の五十を超える数又は金額の株式又は出資を有する場合その他政令で定める場合におけるその会社をいう.

口頭で言われたら何のことだかさっぱりわからない.しかし文章で読めば誤解はない.このような技が可能ならば,論理的で潤いのある文章を紡ぐことも可能なはずである.ただし,形容詞を散りばめればいいというわけでもない.理系出身の作家で理系読書家にもファンの多い池澤夏樹は,小説『すばらしい新世界』(3)の中で,自ら作者として登場し,次のように書いている.

作者の専門は原子力工学ではなく言葉である.だからもらったパンフレットの言葉づかいが気になった.「放射線の封じ込め」というわずか160字の文章の中で事故の危険性は「固い」,「丈夫な」,「密封」,「かんじょうな」,「気密性のたかい」,「厚い」,「しゃへい」などという言葉によって封じ込められていた.
形容詞が多すぎる文章には用心した方がいい,というのは文章にたずさわる者の心得の1つである.そういう文章には誠意がない.形容詞を乱発するのは何かを隠している時だ.要するにこれは論理的な説明の文章ではなく,広告の文体,いわゆるコピーだった.

この文章は,作者が東海村の原子力発電所を見学した際にもらったパンフレットに対する批判である.広告文にも論理的で誠実な文章がないわけではない.しかし,原子力発電所の安全性を説明するパンフレットが広告文と断ぜられる内容だったというのは情けない.案の定,その後JCO臨界事故が起きたと,池澤は指摘する.文章から裏の意図が透けて見えてしまうというのは怖いことだ.

4,5年前,科学コミュニケーションの促進が謳われた際まっ先に出た批判は,それは科学技術のプロパガンダすなわち広告宣伝にすぎないのではないのかというものだった.科学コミュニケーションの要諦の1つは,科学技術研究および科学技術政策の透明性であり,手前勝手な宣伝とは対極にある.科学コミュニケーションと称する活動や行為が宣伝と受け取られるとしたら,それは方法にまちがいがあることになる.ただし,科学の楽しさ面白さを語ることが即,科学シンパの宣伝ということにはならない.

科学のベストセラー

では科学を語る文体としてはいかなるものがふさわしいのだろう.「文は人なり」という名文句を残したことで知られる18世紀フランスの博物学者ビュフォン(1707~88)は,ベストセラー『博物誌』全36巻の著者として名文家の名をほしいままにした.スティーヴン・ジェイ・グールド(4)は,ビュフォンを博物学の文体を「発明」した人物と呼んでいる.

ビュフォンの文体は,地球上のおよそあらゆる対象を取り上げて縷々論じる中で編み出されたものだという.その代表的な文章としてグールドが引用している一文を紹介しよう.南アメリカの熱帯林で樹上生活をする,あの「ナマケモ」について論じたものである.

自然は,サルを造るにあたっては熱心に生き生きとことにあたったのに対して,ナマケモノに対しては制約ばかりつけてのんびりと実行したように見受けられる.しかもナマケモノについて語るとなると,怠惰さよりも惨めさに言及しないわけにゆかない.その構造の,欠陥,欠点,欠失について語らざるをえないのだ.門歯も犬歯もなく,毛に隠れた小さな眼,頑丈でやぼったいあご,干し草のように張り付いた毛,・・・・・・短い脚,ぶざまなぶら下がり方,ぶざまな尻,・・・・・・別々には動かせない指,二本か三本だけ特別に長い爪・・・・・・.スローモーさ,まぬけさ,自分の体に対する無頓着さ,そして悲しい習性までが,その奇妙でぞんざいな形態のせいである.攻撃や防御のための武器もなく,身を守ることすらできない.逃げおおせるための手段もない.一生を,ほんの小さな一区画,自分が生まれた木の下で過ごす.広大な地域のまん中に閉じこめられた囚人なのだ.

あまりの言いようではないか.だが,ビュフォンはとてつもない仕事の虫で,毎日少なくとも14時間は仕事をしたという事実を知ると,怠け者に対する彼の憤懣も妙に納得できる.それはともかく,ナマケモノなる生きものを紹介するために,マイナスイメージをこれでもかとばかりに並べ立てた文章には作意が読み取れる.

ビュフォンは,森羅万象のすべてについて多彩な文体を駆使する中で,ときに宗教や人類の起源にまで言及し,数多くの筆禍事件を起こした.しかしそのつど,やはり華麗な文体で謝罪と反撃を使い分け,いつもなんとなく事なきを得たという(5)

アカデミー・フランセーズへの入会演説で口にした「文は人なり」という至言自体,ビュフォン一流のパフォーマンスの一環だった.アカデミー・フランセーズは終身制で会員は40名に限られている.つまり一人抜けるたびに新会員が選ばれる決まりで,しかも入会演説では前任者を讃える慣わしになっている.しかしビュフォンは,尊敬しかねる前任者の某大司教には暗示的にさらりと触れただけで名前はいっさい出さず,文体に関する演説に終始することで,むしろ歴史に名を残すことになったのだ.

日本にも,寺田寅彦,中谷宇吉郎をはじめ,名文家の誉れ高い科学者は少なくない.たとえば免疫学者多田富雄(6)の次のような一文はどうだろう.これはやはり高名な免疫学者イェルネの伝記に「ニールス・イェルネの聖性と俗性」というタイトルで寄せた序文からの引用である.

バーゼルにはイェルネの崇拝者が数多くいた.どうしてなのか私にはわかる気がした.あの到達できない孤高,間違っているとわかっていても,人を引きつけずにはおかない魔法のような魅力,それを構築する知性,まったく別の視点から見る才能,はるか遠くから物事を眺める目,天上の聖性と俗界の行為の奇妙な混交.(中略)こんな話を長々と聞いて,私はバーゼルに戻った.バーゼルではまだファスナハト[引用者注:聖灰水曜日直後の月曜から3日間繰り広げられるカーニバル]の興奮が続いていた.笛と太鼓が,魔法をかけられた集団の上に鳴り響いていた.それを聞くと体中が動いて,踊らされてしまう.それはイェルネという魔術師に会った興奮のため,眠れなくなった私の枕に,いつまでも鳴り響いていた.

たったこれだけの文章からだけでも,言及されているイェルネという人物のすごさ,いかがわしさが伝わってくる.イェルネという科学者を知らない読者ですら,これから読む伝記の主人公への期待感がいやが上にも高まるというものだ.それと,文章のリズムがどこかしらナマケモノを紹介するビュフォンと似ていなくもない.

多田の序文は,必ずしも親切な紹介文ではない.しかしそれがむしろ効を奏している.これは科学を語る場合に限らないが,すべてをつまびらかにわかりやすく語るほうがよいとは限らない場合が多々あるものなのだ.理論や研究成果の詳細は別にして,すごい体系に触れたことによる高揚感を味あわせるような語り口もありなのだ.そうでなければ,相対性理論や量子力学,あるいは超弦理論などを論じた本があれほど売れる理由がわからない.

ぼくがよく講義や講演で紹介するスライドは,アインシュタインの似顔絵をどんどん単純化していくと,誰の顔だかわからなくなるという,アメリカの漫画家シドニー・ハリスの戯画である.一般に,科学は難しい,もっとわかりやすく説明してほしいというお定まりの意見がある.しかし,すべての科学が必ずしも難しいとは限らないし,わかりやすく説明すれば必ずわかるというものでもない.むしろ,軟らかく煮すぎたせいで,大切な素材を台無しにする場合もある.そのあたりの使い分けが,まさに腕の見せ所なのだ.
最新の科学書ベストセラーは,文体面において新たな境地を切り開いた.

摩天楼が林立するマンハッタンは,ニューヨーク市のひとつの区(ボロー)であり,それ自体ひとつの島でもある.西をハドソンリバーが,東をイーストリバーが流れる.
 観光船サークルラインは,マンハッタンが,縦に細長い,しかし極度に稠密的な島であることを実感できる格好の乗り物だ.船は,ハドソンリバー岸を出発点として南下,自由の女神像を眺望しつつ,かつて世界貿易センタービルが聳え立っていたマンハッタン南端を回って,イーストリバーに入りこれを北に遡行する.

 これは,世界にまだ『地図』がなかったときの,ごく小さな物語である.
 私は,そのころすでにニューヨークを離れてボストンに暮らしていた.この街はアメリカのどの都市とも異なった光を発している.
 ニューイングランドと呼ばれる東海岸の一帯は,イギリスから正教徒が最初に到達した場所で,時間と落ち着きが静かに流れている.秋には石畳の路地にプラタナスやイタヤカエデの黄色い落ち葉が重なり,それを踏むと乾いた音がする.街の商店には,リンゴを絞ってシナモンを入れたアップル・サイダーの茶色のボトルがならぶ.ブラウンストーンと呼ばれる褐色の石積み建物の間からのぞく空は鈍く低い.まもなく長い冬が訪れる.一日中,気温が零度を上回らない日も多くなる.そんな夜は街路灯や遠くの窓辺の光が,透明なまでに鋭角的に澄んで見える.空気中の水蒸気がすべて氷結して地表に落下してしまうので,光の通り道にそれを散乱するものが何もなくなるのだ.

つい長い引用になってしまったが,これだけを読んで科学書の一節と思う人がはたしてどれだけいるだろう.これは,福岡伸一の『生物と無生物のあいだ』(7)の2つの章の冒頭からの引用である.まるでネオハードボイルド小説の書き出しか,村上春樹のエッセイの一節みたいだ.

この本がベストセラーになった大きな要因は,このちょっと気取った流麗な文体と,巧みなストーリーテリングの才によるところが大きい.それともう1つ付け加えるなら,分子生物学本流に対する著者なりのアンチテーゼが一般読者の共感を買ったのだろう.ただし逆にこの点が,同じ分子生物学者仲間や生命科学系の科学ジャーナリストたちから「絶賛の嵐」が巻き起こっていない所以だろう.もちろん,ベストセラー作家になったことに対するやっかみもある.いわゆる「セーガン化」(8)である.

福岡のこの本が発売された当初,ウェブ書店のカスタマーレビューに,「科学者にしては文章がうまい」という評があったように記憶する.どうやら,科学書は文章がまずいという固定観念が,科学は難しいと同じくらい払拭されずに残っているようだ.翻訳書に関してはこの偏見がもっと根強い.科学書の翻訳に関しては,「この手の翻訳としては読みやすい」という言い方が最大の誉め言葉として未だに残っているからだ.

科学を耕す

『文章読本』を著した大作家たちはみな,文章のジャンルに貴賤はないと言いつつも,文学作品を最高位に,実用書や専門書の文章は下位に位置づけてきた(1).だが,科学書のミリオンセラーが出る時代に,そのような区別はもはや意味をなさない.
 ただ,次のような味わいある一文に出会うと,科学を語る文体の奥は深いと思い知らされる.

白石はその説明ではじめて,茫ばくとした天空に浮かぶ球体である地球というものを実感出来た気がしたのである.その地球は,いまも思い描けば青黒い宇宙のなかに日の光をうけて静かにうかんでいる.想像の中のその光景は,なぜか白石に思わず微笑したくなるような,たのしい気分をはこんで来るのだが,それが理というものが持つたのしさだということを,白石は理解していた.
藤沢周平『市塵』(9)より

科学の「理」あるいは「智」がもたらす歓びを一人でも多くの人と共感する上で,文章が果たす役割は大きい.そのためには,科学の種をまく土壌をもっともっと豊かなものにしていかなければならない.

科学コミュニケーションはプロパガンダではないと書いたが,科学への関心を失った人たちに振り向いてもらうには,楽しいこと,得することをとにかく知ってもらう努力も必要である.ただしその際,必ずしも無理に科学を好きになってもらう必要はない.あるいは,それを強制しようとしてはいけない.とにかく,関心をもってもらうことが大切なのだ.「なぜなら」と,ぼくは講演の最後に,気恥ずかしさを押し殺して,マザー・テレサの言葉を引用することが多い.

マザー・テレサは,「愛」の反対語は「憎しみ」ではないと言った.愛の反対語は「無関心」なのだと.科学と社会のあり方を考える上でもいちばん恐ろしいのは,科学に対する無関心なのだ.

 


 

文献

(1)斎藤美奈子:文章読本さん江,筑摩書房(2002)

(2)井上和子:科学と日本語,科学技術の智プロジェクト第3回企画推進会議での講演,

(3)池澤夏樹;すばらしい新世界,中公文庫(2003)

(4)S・J・グールド,渡辺政隆訳:マラケシュの贋化石,早川書房(2005)

(5)J・ロジェ,ベカエール直美訳:大博物学者ビュフォン,工作舎(1992)

(6)多田富雄:ニールス・イェルネの聖性と俗性,T・セデルキスト,長野敬・太田英彦訳:免疫学の巨人イェルネ,医学書院(2008)

(7)福岡伸一:生物と無生物のあいだ,講談社新書(2007)

(8)渡辺政隆:科学の種をまく(第4回)

(9) 藤沢周平著:市塵,講談社文庫(2005)

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